サヨナラcolor
2005年 04月 26日
考え事、それが頭から離れず、眠れない。
こんな夜は優しい唄でも聴いて眠ろう、と思いキャラメルを口に入れつつ、何を聴こうか考える。福山の「Squall」か山崎の「OneMoreTime_OneMoreChance」か。そんな時、NHKのトップランナーという番組でハナレグミをゲストに迎えた時の録画映像があったな、よし、あれを聴こうと思い、見始める。
目的の曲は、ハナレグミ・バージョンの「サヨナラcolor」という、曲名だけで曲調、優と暖がほんのりと感じられるような唄。アコースティックギターによる弾き語り。ジャカジャカかき鳴らすだけのどっかのゆずもどきと違って、アルペジオを基調として雰囲気を作ってる。安っぽい安易で奥行きの無い言葉に寄りかかった詩のできそこないを吐くどっかのゆずもどきと違い、単純だが、日常用語だが、決して安易なものではなく、そこに言霊が宿っている言葉を選び、紡ぎ、唄っている。
さて、昔あるアーティストの曲の歌詞を全部載せて、そのアーティストの信者である後輩に手痛い非難を浴びたが、今回は歌詞の批評ということで許してもらいたい。
そこから旅立つことは とても力がいるよ
波風立てられること 嫌う人ばかりで
でも 君はそれでいいの? 楽がしたかっただけなの?
僕をだましてもいいけど
自分は もう だまさないで
冒頭からサビ前までの部分である。
「僕をだましてもいいけど 自分はもうだまさないで」
この言葉たちの根底にあるものは、何なんだろう。はっきりと、こういうことだ、とは言えないが、なんとなくわかる。感じることができるような気がする。実は、言葉にする必要のないことなのかもしれない。ぼんやりと感じたことだけで、よいのかもしれない。
少し前に、「あきらめる」という言葉をキーワードにした文章を拝借した。そこで、あきらめるというネガティブな言葉を軸にした話の中から、はっきりとした希望の一節があった。それは、「あきらめても、あきらめても、あきらめきれない強いものが見えてくるはずだ」という実に力強い文。
意外に、固執してたものほど捨ててしまった後に何でもなかったりすることがある。それは、「あきらめられた」からであると勝手に納得してる。よくよく考えてみたら、そんなに深く思うことのほどでもないな等、自分の頭でちゃんと考えてないで、適当に好きになってたり、正義や善だと思ってたりする場合が多いからだ。そして、あきらめる、という行為をいつまでも決断することができない時、その時にあきらめることができなかった「何か」が自分の中の真実になると思ってる。(余談だが、真実と事実の違いは、主観か客観か、だと決め付けてる)
そんな長い前ふりを踏まえて、サビの歌詞は以下のようになってる。
サヨナラから はじまることが
たくさんあるんだよ
本当のことが見えてるなら
その想いを 僕に見せて
「サヨナラ」と「あきらめる」という似てるような似てないようなこれらの言葉。
決別、という意味では同じなのかもしれない。ただ、印象としては「あきらめる」はネガティブ度が強いかもしれない。もちろん、ハナレグミの永積タカシや、こだま和文はこんな風に同列に語られるのは心外であろう。でもここで並べて見せたのは、これらのものに対面した時に、自分が感じたことが全く同じだったからである。だから、そこに何を見出し、何を思ったかを少し書いてみた。
この「サヨナラcolor」という曲は
このサイトからリンクを辿れば、短いけれども聴くことができます。また、他にもハナレグミでは、「家族の風景」という曲がとてもいいです。
曲は、以下のように続き、そして、幕を閉じる。
自分をつらぬくことは とても勇気がいるよ
だれも一人ボッチには なりたくはないから
でも 君はそれでいいの? 夢の続きはどうしたの?
僕を忘れてもいいけど
自分は もう はなさないで
サヨナラからはじまることが たくさん あるんだよ
本当のことが 見えてるなら その思いを 捨てないで
本当のことは 見えてるんだろう その思いよ 消えないで
その思いを 僕に見せて
こんな夜は優しい唄でも聴いて眠ろう、と思いキャラメルを口に入れつつ、何を聴こうか考える。福山の「Squall」か山崎の「OneMoreTime_OneMoreChance」か。そんな時、NHKのトップランナーという番組でハナレグミをゲストに迎えた時の録画映像があったな、よし、あれを聴こうと思い、見始める。
目的の曲は、ハナレグミ・バージョンの「サヨナラcolor」という、曲名だけで曲調、優と暖がほんのりと感じられるような唄。アコースティックギターによる弾き語り。ジャカジャカかき鳴らすだけのどっかのゆずもどきと違って、アルペジオを基調として雰囲気を作ってる。安っぽい安易で奥行きの無い言葉に寄りかかった詩のできそこないを吐くどっかのゆずもどきと違い、単純だが、日常用語だが、決して安易なものではなく、そこに言霊が宿っている言葉を選び、紡ぎ、唄っている。
さて、昔あるアーティストの曲の歌詞を全部載せて、そのアーティストの信者である後輩に手痛い非難を浴びたが、今回は歌詞の批評ということで許してもらいたい。
そこから旅立つことは とても力がいるよ
波風立てられること 嫌う人ばかりで
でも 君はそれでいいの? 楽がしたかっただけなの?
僕をだましてもいいけど
自分は もう だまさないで
冒頭からサビ前までの部分である。
「僕をだましてもいいけど 自分はもうだまさないで」
この言葉たちの根底にあるものは、何なんだろう。はっきりと、こういうことだ、とは言えないが、なんとなくわかる。感じることができるような気がする。実は、言葉にする必要のないことなのかもしれない。ぼんやりと感じたことだけで、よいのかもしれない。
少し前に、「あきらめる」という言葉をキーワードにした文章を拝借した。そこで、あきらめるというネガティブな言葉を軸にした話の中から、はっきりとした希望の一節があった。それは、「あきらめても、あきらめても、あきらめきれない強いものが見えてくるはずだ」という実に力強い文。
意外に、固執してたものほど捨ててしまった後に何でもなかったりすることがある。それは、「あきらめられた」からであると勝手に納得してる。よくよく考えてみたら、そんなに深く思うことのほどでもないな等、自分の頭でちゃんと考えてないで、適当に好きになってたり、正義や善だと思ってたりする場合が多いからだ。そして、あきらめる、という行為をいつまでも決断することができない時、その時にあきらめることができなかった「何か」が自分の中の真実になると思ってる。(余談だが、真実と事実の違いは、主観か客観か、だと決め付けてる)
そんな長い前ふりを踏まえて、サビの歌詞は以下のようになってる。
サヨナラから はじまることが
たくさんあるんだよ
本当のことが見えてるなら
その想いを 僕に見せて
「サヨナラ」と「あきらめる」という似てるような似てないようなこれらの言葉。
決別、という意味では同じなのかもしれない。ただ、印象としては「あきらめる」はネガティブ度が強いかもしれない。もちろん、ハナレグミの永積タカシや、こだま和文はこんな風に同列に語られるのは心外であろう。でもここで並べて見せたのは、これらのものに対面した時に、自分が感じたことが全く同じだったからである。だから、そこに何を見出し、何を思ったかを少し書いてみた。
この「サヨナラcolor」という曲は
このサイトからリンクを辿れば、短いけれども聴くことができます。また、他にもハナレグミでは、「家族の風景」という曲がとてもいいです。
曲は、以下のように続き、そして、幕を閉じる。
自分をつらぬくことは とても勇気がいるよ
だれも一人ボッチには なりたくはないから
でも 君はそれでいいの? 夢の続きはどうしたの?
僕を忘れてもいいけど
自分は もう はなさないで
サヨナラからはじまることが たくさん あるんだよ
本当のことが 見えてるなら その思いを 捨てないで
本当のことは 見えてるんだろう その思いよ 消えないで
その思いを 僕に見せて
by gilarmin
| 2005-04-26 04:18
| 音楽